ドブの底

汚い

    駅の北口を出て商店街をぬけ、大通りに出たところで右に曲がった。早朝の環七通りはトラックばかりが通り過ぎ、まだ日の出ていない空は夜の延長にすぎなかった。小雨が降っていたが傘をささなかった。濡れても構わないと思い、雨が髪を濡らすのを知った。

    彼と太陽は結びつかない。夜の時間に働いている彼に会いに行くのはいつも朝、それも夜とほとんど区別のつかない時間だった。日はいつも出ていない。彼の部屋はいつも遮光カーテンがひかれていて、だから二人が目を覚ました時に差しているはずの光も、彼の家を出るまでは無いのと同じだった。少なくとも私にとってはそうだった。その時私はいつも一人だった。一人でその家に行き、一人で出ていった。扉を開けた瞬間の、眩みそうな日。鼻をかすめる他人の匂い。

「いろんな目があるから俺たちのことは秘密によう」とあるとき彼が言った。彼の言う「いろんな目」は、彼の恋人かもしれなかった。彼の友人かもしれなかった。あるいは、私の代替品の可能性もあった。それが誰の目であれ、私には関係の無いことだと思った。

    そのたくさんの目から私が隠されていることの方がずっと重要だった。守られていると思った。そう思ってしまえる自分の、なんと寂しいことか。

    環七通りを越えても歩き続けた。目の前を野良猫が横切る。それは白い猫で、あとで彼に教えてあげようと思った。

    彼の代わりを見つけようと努めた。同じ歳の男がいた。同じ煙草を吸う男がいた。でも違った。簡単なことだった。誰も彼になれないという事実に打ちのめされながらこれからも生きていく、歩いていく。

    言葉なんて知らないほうがよかった。こんなにも一つ一つの言葉に揺さぶられるのならば、そんなもの知らないほうがよかった。