ドブの底

汚い

つぼみ

 黒板の隣にかけられた時計を盗み見るのはこれでもう四度目だ。さっき見たときから、まだ五分しか経っていない。時計の下には、「受験はチームプレイ」「塵も積もれば山となる」と毛筆で書かれた張り紙がある。書道部の顧問をしている担任教師の山岡富子が、始業式の日に教壇に立って言った言葉を思い出す。

「みんなのためにこれを書きました。この言葉の通り、受験はチームプレイだと私は思います。目標に向かって頑張る人の背中を見て、同じように自分も頑張ろうと思える。そうして努力が連鎖して、大きな結果を生むと信じています」

 山岡の正確な年齢は知らないが、白いものの混ざった頭髪や、水分の少ない肌から四十歳はとうに過ぎているだろうことは容易に想像できた。いまだに独身だと噂のたつその女教師は仕事が生きがいらしい。毎年三年生の進学クラスを受け持つ山岡は受験のノウハウを知り尽くしており、教員仲間からかなりの信頼を置かれていることが、生徒たちにもよく分かった。実際山岡の古文の授業は面白い。受験用に知識を詰め込むのではなく、生徒たちが古文そのものを好きになるように、様々な豆知識や時代背景をはさんで解説をする。特に和歌の解説は、和歌を送る人、送られる人の心情を丁寧に読み解く。和歌というある種の恋文を独身らしい四十女の教師に熱心に語られるのはどこか皮肉めいていたが、あまり彼女の恋愛経験の有無を想像しないようにした。

 チャイムが鳴った。「今日はここまでにします。お疲れ様でした」と山岡が礼儀正しくお辞儀をして、教材をまとめて教室を出た。三年生になり、古文の教科担任が担任の山岡になってから古文の授業が好きになったが、今日の授業内容は全く頭に入ってこなかった。

 いや、今日だけじゃない。古文の授業は週五コマあるが、毎週水曜日の二限だけは、どうしても授業に集中できないのだ。

 やっと次は三限だ。水曜の三限は、週一度の体育。

    三年生になってから、進学クラスは他のクラスと違って五教科の授業が増えた。加えて進学クラスは、一限前の特別講義に、放課後の勉強会(会とはいっても名ばかりで、ほとんど強制参加だ)があり、四月からとにかく受験に向けて勉強ばかりさせられる。三年生は全部で六クラスあるが、進学クラスは二年生までのあいだ成績上位だった生徒だけを集めた、唯一の精鋭クラスだ。他のクラスとは違いハイレベルの授業をこなし、毎年多くの生徒を難関大学へ輩出している。

    古文の授業が終わり、三限の体育に備えて女子が更衣室へ移動し始めた。男子用の更衣室はなく、教室に残された男子生徒たちがそれぞれその場でブレザーを脱ぎ、体育着に着替え始めた。進学クラスということもあり、着替えている男子の体は白く華奢な者が多い。躊躇わず制服を脱ぐ者や、下着だけの姿で雑談している者を尻目に、剛は俯きながらてきぱきと体育着を纏った。

    尚吾と浩平と並んで運動場へ出た。二人とはそれほど仲が良いわけではないが、三年生になってからは一緒にいることが多い。学校とはそういうものだ。生涯の友情を誓い合ったわけでも、こいつのためなら命を差し出せると思える仲でなくとも、なんとなく交友関係ができあがりとりあえず時間を共有する。それを青春と呼ぶのなら、青春とはなんとちぎれやすいものだろう。緩く絡み合った糸は、持つ手に力をこめたら簡単にほどけてしまう。もちろん剛には、絡んだ糸を解いて一人で漂うつもりなどないのだけれど。

    運動場の中央部にはすでに男子がかなり集まっていた。男子は陸上競技、女子は室内で体操だ。体育の授業だけは進学クラスだけ特別ということはなく、他の二クラスと合同で行われる。男子生徒の数が少しずつ増えた頃、体育教師の田嶋がジャージ姿でやってきた。

    三クラス分の男子生徒が高校生特有のはしゃぎ方で声をあげている中に、望の姿を探した。隣で尚吾と浩平が、さっきの古文の内容について何か話し合っているようだが耳に入らない。いつも男子の輪の中心にいる望が見当たらずきょろきょろ周囲を探していると、突然足の力が抜けてその場に崩れ落ちた。と思うとすぐ、後ろから笑い声が聞こえた。よく聞き慣れた、力強く通る、望の声だった。

「だっせー。お前これで何回目だよ」

 笑いながらそう言って、望が腕を掴んで起こしてくれた。望は剛と身長がほとんど変わらない一七〇センチほどだ。膝の位置もやはり同じくらいで、よくこうして膝かっくんしては剛をどんくさいと言って笑う。

 日に焼けた望の腕は、背丈は同じくらいなのに剛よりも一回りも二回りも太い。半袖の体育着から伸びたたくましい腕は、ところどころ日焼けで皮が剥けていて痛そうだ。

「勉強ばっかしてるからひ弱なんだよ、お前は」

「野球ばっかしてるよりはマシだと思うけど」

 互いに嫌味が少しもない乾いた調子で言った。これが望流の、あるいは望のいる体育会系の世界での挨拶方法らしい。

「練習試合だったの?」

 望の剥けた皮を撫でて言うと、やめろよと望がくすぐったそうにした。

「そうそう。前の土日で他校との練習試合だった」

「そっか、大変だね」

「夏の引退まであと少しだからな。いまが踏ん張りどきだ」

 頭上からじりじりと照らす太陽に汗が滲んだ。教室から出てまだそれほど時間が経っていないのに、体操着はすでに濡れ始めている。しかし少しも不快ではなかった。一年生、二年生と同じクラスだった望と会えるのは、週一度の体育の時間だけだ。坊主頭の望の額には、とめどなく汗が流れている。焼けた肌に、汗がよく似合っていた。

 授業が始まり準備体操を終えると、クラスごとに短距離走をさせられた。田嶋は体育教師のなかで最も授業がゆるい。規定の運動をさせたあとは、生徒たちを自由に運動させる。自分も生徒に混ざって走ったり談話したりしていて、おそらくそれが田嶋が生徒たちに人気のある理由なのだろう。運動が苦手な剛は疲れない程度に一度だけ走り、残りの時間は運動場の隅にある体育倉庫の日陰に入って涼んだ。体育倉庫の裏には体育館があり、開け放たれた頑丈な扉から、女子の声がこぼれて聞こえてきた。

 太陽の光を反射している運動場がまぶしい。運動部の連中が何度も短距離走をしてはタイムを競っている。その中心にはいつも通り望がいる。剛と同じくらいの身長にも関わらず、日々の鍛練で鍛えられた肉体と大きすぎる笑い声によって、遠くからでもすぐに居場所が分かる。こんな風に望の姿を追うためだけに学校に来ているような気がした。

 男子の輪から望が離れ、まっすぐこちらに向かってきた。手に汗が滲むのは、きっと気温のせいだけではない。体育倉庫がつくる日陰に望が入り、体操着をまくって額の汗を拭った。分厚い腹筋がちらりと見えたが、剛はつとめて平静を装った。

「もう走らないの?」

「もう限界。暑すぎて死にそう」

 隣で胡坐をかく望の足を見た。腕と同様に、剛のそれよりずっと太い。汗で濡れた脛に、運動場の砂がはりついている。たしかに暑さで息を切らしているが、望がここに来たのはそのためだけではない。

    一年生のとき休み時間に読書していると、「なに読んでるの」と望が話しかけてきたことを、いまでもよく覚えている。剛の前の席に後ろ向きで座り込み、読んでいる本の表紙を覗き込んできた。

「あ、灰葉ゆうじゃん」

「知ってるの?」

「読んだことないけど、名前だけは。本好きなの?」

 好きだよ、と言うと「今度灰葉ゆうのおすすめの本貸してよ」と望が言った。ごつくて男臭いのに目だけは幼く、長い睫毛が目立つ顔だと思った。望は分け隔てなく人と接する。そのときもきっと、黙々と読書をしている剛が寂しそうに見えて話しかけてきたのかもしれない。それから望は、読書をしている剛によく話しかけてくるようになった。そのたびに本のタイトルとおすすめを訊いてくるが、望が実際にそれを読んだことは一度もない。望はそうやって、いつでも周囲に気をつかって場を明るくする。そういう男なのだ。

 だからこうして望が剛の隣にやってきたのも、二年間同じクラスだった剛が一人で涼んでいることに気付き、声をかけるためだった。望にとってはただの元クラスメイトだとしても、剛にはそうして望が少しでも自分を気にかけてくれることが嬉しい。

「女子は室内でいいな」

 望が体育館を見上げて言った。

「そういえばお前さ、浅井桜と幼馴染なんだっけ」

 突然桜の名前が出てきて剛は少し驚いた。浅井桜は剛と家が近く、小学校から高校までずっと同じ幼馴染だ。一年生、二年生とクラスは違ったが、三年生になり桜も進学クラスになった。

「そうだけど。なんで?」

「俺さ、桜ちゃんのこと気になってるんだよね」

 照れくさそうに笑う望の表情に胸が痛くなった。いつも遠くから見ている男の表情ではなく、異性を想うときにだけ現れる表情だった。

 桜とは三年生になってからは同じ進学クラスで、家も近いこともあり、たまに並んで帰宅する。以前桜と一緒に運動場前を通り帰っているところを、望は野球部の練習中に見かけたのだという。

「やっぱ彼氏いるのかな。美人だし、賢いし。才色兼備ってやつだよな」

「さあ。桜とは恋愛の話とか、しないから」

 そう答えたそばから、自分の声がひどく無愛想に響いたかもしれないと不安になった。

 馬鹿みたいだ。いや、馬鹿なんだ。桜に嫉妬する権利など、自分にはない。嫉妬は同じ場所に立つ者に湧く感情だ。桜は女で自分は男、その事実は変えようもない。

 背後から声が聞こえた。二、三度声が繰り返され、それが自分を呼ぶ声だと気がついた。

「つよしー!」

 開け放されている体育館の扉の前に桜が立っていた。首にタオルをぶら下げて、水筒を片手に持っている。昔から変わらない少し茶色っぽい髪が、汗で額にはりついている。こっちおいでよ、と何も持っていない方の腕で合図していた。

 体育倉庫裏の小さな階段を昇り桜のもとへいくと、「なにさぼってんの」と小突かれた。さっきまで地面に座り込んでいた望も、いつの間にか剛を追ってきていた。

 三人の間に妙な間ができた。望の話を聞いた限りでは、望と桜はまだ話したこともないようだった。桜が「だれ?」と目で言ってきた。二人を知っている者として仕方なく沈黙を破った。

「こいつ、野球部の望。一年と二年で同じクラスだったんだ」

 いまだ、と言わんばかりに望が口を開いた。

「どうも。河野望です。剛からたまに話聞いてます」

「浅井桜です。私も剛から話に聞いてます。よく剛から名前は聞いてたから、なんだか初めて話した気がしないわ」

 桜が学校用の桜になっていて、つい笑い出しそうになった。小学校から高校まで唯一同じ桜は、剛の前だと素をさらけ出す。容姿端麗なくせにがさつでわがままな女なのだが、剛以外の人間の前では決してそれを出さない。だからこそ男子からは、才色兼備で控えめな女子として割と人気がある。桜に言わせれば、学校で本当の自分を出さないのは「面倒なことに巻き込まれないための生き方」らしい。

「なんだか面白い組み合わせ」

 剛と望を見比べて桜が言った。そうかな、と望がおどけた表情をした。

「だって、バリバリの体育会系とインドア派の剛だから。全然共通の話題なんてなさそうなんだもん」

「えっと、そう、俺も読書好きなんだ。なんだっけあの作家、たしか……」

「灰葉ゆう」

 一年生のとき、初めて望と話すきっかけになった本の作者だ。本なんて読む時間もないくらい野球ばかりしているくせに、桜と話したくて無理に話題を作ろうとしている望に、仕方なく助け船を出した。

「そうなんだ。私も灰葉ゆう好きなの。どの作品が好き?」

 望が嘘をついていることくらい、自分を学校用に演出するのが得意な桜にはすぐにわかっただろう。それなのに桜は望の話に付き合っている。ちらりとこちらを見たときの目だけが、普段の桜の目をしていた。がさつでわがままな、昔からよく知っている幼馴染の目だ。

「あの本なんてタイトルだっけ」

 頭の後ろを掻きながら望が訊いた。普段誰とでも話し、よく笑う望が、異性の前だとこんなにも口下手になると知ることができたのが嬉しかった。しかし同時に、こんなふうにはにかんだ表情を自分の前では一度も見せなかったことに気がついた。気がついた自分に気がつかないようにつとめた。

「〝桜のとき〟だよ」

「ああ、そうそう。それだ。〝桜のとき〟。剛がおすすめしてくれて」

「私も〝桜のとき〟が一番好き。だって私の名前がタイトルに入ってるんだもん」

 桜と望が話すのをぼんやり聞いていたら、運動場で集合の笛の音が鳴った。もうすっかり汗はひいていた。じゃあまた、と運動場に向けて走り出そうとしたとき桜が、

「〝桜のとき〟、今度会う時までにちゃんと読んでね」

と望に言った。運動場の中央には授業終わりの挨拶のために、男子生徒が集まり始めている。駆け足で戻る途中、望の厚い背中を見た。走る速度を上げたらきっと追いつける。両手を伸ばしたらきっと届く。そんなことを考えながら、望の背中を追いかけた。

 

「活字読むのってけっこう疲れるんだな」

 望が口の中のものを咀嚼しながら言った。剛の弁当箱の三倍くらいもある大きな弁当箱には、これでもかというほど白飯とおかずが詰め込まれている。それなのに食べ終わるまでの速さは剛と同じくらいなのだから驚きだ。

 灰葉ゆうの〝桜のとき〟を望に貸してから一週間が経った。体育の授業で桜と話してから、二日に一度の頻度で望が進学クラスの教室へやってきて一緒に昼食をとるようになった。普段一緒に昼休みを過ごしている尚吾と浩平は、窓際の席に座り二人で弁当を広げながら教科書を眺めている。

「もう読み終わった?」

 桜が訊いた。望が昼休みにやってくる日は、自然と桜も机を並べて共に弁当を食べるようになった。読んだことがないくせに見栄を張って〝桜のとき〟が好きだと言った嘘を見抜かれたことが悔しいのか恥ずかしいのか、野球部で忙しい望は、授業中に教科書で隠しながら〝桜のとき〟を急いで読んでいるという。進学クラスの剛と桜、普通クラスの望。この三人の組み合わせを周囲の生徒たちは奇妙に思っているかもしれない。進学クラスの教室に望がいると、その大きな体が存在感を放ちどうしても目立つ。しかし望はそんなこと少しも気にしていない。桜と話せることがとにかく嬉しいようだ。

 いずれにせよ、と剛は冷静な頭で考えた。桜と望が少しずつ距離を縮めているのは、近くにいればなんとなく分かる。しかし桜目当てだとしても、こうして望と一緒にいる時間ができるのはありがたいことだ。

 窓の外で跳ねる陽光、チョークで数式の書かれた黒板、目の前で弁当をかきこむ望の腕。この景色をいつか忘れてしまうかもしれない。忘れるのなら、それでいい。ただ今はこの空間に揺蕩っていたい、大きく息を吸っていたい。剛は空になった弁当箱をしまいながらそう願った。

「やっと半分くらいまで読んだとこ」

 一気に昼食を食べた望が、水筒のお茶を飲んでから言った。

「あんまり小説を読んだことがないからなのかもしれないけど、いまいち物語に入り込めないんだよな。同性愛をテーマにした話だからっていうのもあるかもしれないけど」

「灰葉ゆうって、〝桜のとき〟が文学賞を受賞したときに自分がゲイであることをカミングアウトしてるの。知ってた?」

 望と話すきっかけを上手く見いだせず、どうしてもいつも桜と望の会話が中心になってしまう。人付き合いの上手い二人が会話を弾ませるのは自然なことだった。

「そうなの?灰葉ゆうって名前だから、てっきり女の人なのかと思ってた」

「私も最初はそう思ってた。でも剛に教えてもらったの」

 桜がこちらを見た。ブレザーの大きいリボンが、小さな顔をより小さく見せている。

「灰葉ゆうは、自分がカミングアウトすることで、世界にいる性自認に悩む人々の励みになりたいって思ったんだ。インタビューでそう言ってた」

 ふーん、と望は大して興味なさそうに言って桜を盗み見た。望にとっては〝桜のとき〟そのものよりも、それが繋いだ桜との時間の方がよっぽど重要なのだろう。

「でも男が男を好きになるのってよくわかんねーな」

 そう言った望の声がやたらと響いた気がした。空洞になった体の中に望の声が入り込み、流れ出た。残響が鳴った。

「男とか女とか、好きになるのにそんなの関係ないよ。誰を好きになるかが大切だってことを、灰葉ゆうは書きたかったんじゃないかな」

 予鈴が鳴った。ごめん俺トイレ行くから、と望と桜を残して教室を出た。廊下を歩く生徒たちの声に紛れたら、少しはこの寂しさが薄まってくれるだろうか。すれ違う高校生たちのなかの誰一人として自分を救ってくれる者はいないという確信が胸に満ちた。

 

 夏の夕陽が二つの影を長くアスファルトに映し出している。住宅街で、どこからともなく夕飯の匂いがした。今日の昼休みにやってきた望が、やっと〝桜のとき〟を読み終えたと嬉しそうに話していた姿をふと思い出した。

「剛はどこの大学行きたいの」

 隣を歩く桜が訊いた。今週末には模試があり、その結果をもとに担任の山岡と面談をして受験校を決めることになっている。学校から出て剛と二人になると、いつも通りの桜になっていた。声が少しだけ低くなり、大股で歩いている。地面を叩くローファーの音がうるさい。それでも学校で話す桜より、小さな頃から親しんできたこっちの桜の方がずっと落ち着く。幼馴染という、男女の垣根のない関係が心地よい。

「東京の大学を受験しようと思ってる」

「初耳」

「だっていま初めて言ったんだもん」

「なんで東京なのよ。この街から離れたいの?」

 すぐに言葉が出てこなかった。四月から、東京の大学を受験しようと決心していた。その理由は自分でも分からない。

 住宅街の中にぽつりとある公園が見えた。数人の小学生たちが遊んでいる。ふと、彼らと同じくらいの歳の頃を思い出した。駆け回って遊ぶ男子の群れに加わるのが苦手だった。それよりも桜と砂場で遊ぶ方が、ずっと楽しかった。

「この街とか、家族とか、好きじゃないの?」

 珍しく桜の声が弱々しかった。その言葉を聞いた瞬間、気がついた。

 この街も、家族も、大好きだ。大好きだからこそ、離れたいんだ。誰も自分を知らない土地で自分を生きたい。自分を隠しながら生きるのは、ときどき、どうしようもなく苦しい。

 そんなことないよ、と答えると、桜が安心した表情を浮かべた。

「そういえば望くんに告白された」

 突然の言葉に戸惑った。無意識にきつく唇を噛みしめ、自分の心に問うた。大丈夫、そんなに傷ついていない。いつかこんな日が来る気がしていた。この胸の痛みは、ちゃんと予感していたものだ。

「望、なんて言ってたの」

「最後の大会でホームラン打てたら、俺と付き合ってくれって。馬鹿みたいだよね、そんな漫画みたいな告白の仕方」

 望らしいと思った。

「桜は望のこと、どう思うの」

「私も望くんのこと、好きだと思う。底抜けに明るくて太陽みたいな人。それなのにその光を、自分のためじゃなく人のためだけに放つことしか考えてない。時々暑苦しいけど、一度知ってしまったら忘れられない温度だと思う」

 桜が言った言葉は、そっくりそのまま剛が望を好きな理由と同じだった。同じだという事実に安心した。

「剛と望くんって、ほんと不思議な組み合わせ。二人の名前を入れ替えたら、それぞれの名前と性格がぴったり合いそう」

 そうかもしれない。剛が望に、望が剛になった姿を想像した。名前が入れ替わっても望を好きになるのだろうか。いや、そのとき相手は剛になるのか、と考えだしたら、頭の中が散らかった。おかしくて、桜と二人で笑った。

「名前なんかじゃその人のこと分からないもんだよ。灰葉ゆうだって、そうだったろう」

 たしかに、と桜が言った。

 長い夕方がいつまでも続いた。剛の家の前までたどり着くと、じゃあね、と桜が歩いていった。桜の家は剛の家の三軒向こうだ。夕陽に向かって歩く桜の背中が、歌っているように見えた。

 

 球場はどこを見ても人で溢れていた。みな帽子を被り、肩からタオルを下げている。隣で日焼け止めを塗っている桜から、日焼け止めを分けてもらい腕や首に塗った。応援団やチアダンス部の声が、青い絵の具を塗った空に吸い込まれていく。

「ほら、望くんの番だよ」

 桜がはしゃいで立ち上がった。野球のルールはよく知らないが、どうやら望のチームは順調にペースを掴んでいるらしいことが、応援に駆け付けた周囲の生徒や保護者や卒業生たちの声色から分かった。

 バッターボックスに立った望が大きく見えた。桜と二人で、じっと見守る。相手チームのピッチャーと望の視線がぶつかっている。ボールが投げられた瞬間、球場を風が吹き抜けていった。