ドブの底

汚い

残映

 作業着のまま自販機の前に座り込み、深く煙草の煙を吸い込む。辺り一面は森、煙草の甘苦い後味には、濃い自然の匂いが混じり込んでいる。葉が反射する陽光に目を細める。吐き出した煙は風に揺られて、あっというまに空へ、森へと消えていった。

 缶コーヒーを飲み干して、煙草の吸殻と一緒にゴミ箱へ投げた。勤め始めて数ヶ月、いつの間にか退勤後の一服が習慣になっていた。目を閉じて、聞こえてくる森の音に身を委ねてみる。風に揺られる葉と葉が、掠れあって大きな音を生む。息を吸い込むと、体の中の空洞が森の音で満たされた。何をするでもなく突っ立っていると、道を挟んだ工場の従業員出入り口から男がこちらへ向かって歩いてきた。

「お疲れ。暑いな」

「お疲れ様です」

「敬語、やめろよ。外に出たら上も下もない、ただの同級生だ」

「そうだな」

 笑いながら話す肩幅の広い男は、かつて充が小学校から高校まで共に過ごした山本浩介だ。ずっと野球を続けていた山本は、野球をやめて随分経つ今でも体だけはたくましい。一度地元を離れ、そして再び戻って小さな工場に就職した充にとって、山本は一応とはいえ上司にあたる。ラインの責任者と、ただの作業員。線引きして何になるでもない。分かっていても気持ちは言葉に表れる。

「ここの仕事にはもう慣れたか」

「まあ、ぼちぼちって感じかな」

 そうか、なら良かったと屈託なく言って、山本が自販機で炭酸飲料を買った。缶が自販機から吐き出される瞬間の硬い音も、この自然の中ではひどく小さい。もう飲み物はないが、山本が地面に座り込むのにつられて隣に並んだ。

「高梨はほんと昔から変わらないな。覚えてるか?中学のときの体育祭。暑いのは嫌いだとかなんとか言って、お前だけ練習に参加しなかったんだよ」

「ああ、そんなこともあったな」

「そうそう、それで結局体育祭の本番も、風邪ひいたって言ってずる休みしてたんだよ」

 過ぎた日の出来事を話す山本の目に薄い光が灯る。充の胸に、暗い感情が湧き上がった。

 ――ああ、これが俺は嫌いなんだ。

 電車もない、若者が遊ぶ場所もない。この寂れた陸の孤島で生まれ育った者たちは、口を開けばいつも昔の思い出話ばかりする。何度同じ話を繰り返したら気が済むのか。世界は広く、体一つでどこにでも行かれるのに、皆この町に縛られて生きている。

 感情が顔に滲む前に立ち上がり、喉は乾いていないが再び自販機で飲み物を買った。缶の落ちる音は聞こえなかった。

 小学校から中学校までほとんど同じメンバーで育ち、そのまま町内唯一の小さな公立高校へと進学する。高校を卒業すると誰もが就職する。県内にある大手自動車会社の恩恵で、下請けや、さらにその下請けの工場の働き口はいくらでもある。そして二十代のうちに地元の者同士で結婚して家庭をつくる。そんな未来の分かりきった道から充がはみ出したのは高校生三年生の時だった。

 東京の大学へ行きたいと話したとき、父は怒り狂って反対した。そんな金がどこにある、大学へ行って一体何をするのかと。父の口から出てくる言葉は、そのまますべて充の原動力へ変わっていった。ここじゃないどこかへ。反対を押し切り、逃げるように町を出たのはもう何年前か。いま、こうしてこの町へ戻ってきた理由が父親の死だとは皮肉だ。

「うちの子供がこの前初めて立ったんだ。ほら、これ見て」

 山本がスマートフォンを差し出して動画を再生した。犬や猫みたいな小さい人間が、おぼつかない様子で立ち上がる。

「子供の成長は早いな」

「本当に早いよ。この前生まれたばっかりだってのにさ」

「この前、なんてことはないだろう」

 山本が再び動画を再生し、目を細めて眺めている。変わらず昔話ばかり口にするこの男にも、家へ帰れば妻と子がいる。繰り返される思い出とは無関係に、たしかに時間は流れているのだ。

「お前も早く嫁をもらえ。家族はいいぞ」

 煙草を一本くれと言う山本に、セブンスターの箱を手渡す。山本の言葉に答える代わりに、充も煙草に火をつけた。

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