ドブの底

汚い

残映(2)

 家へ帰ると台所から賑やかな声が聞こえた。築三十年は経つ家に、魚を煮詰める甘い匂いが漂っている。

「帰ってたの。ただいまくらい、大きな声で言いなさいよ」

 台所から顔だけ出して母が言った。その向こうに、咲がいた。

「おじゃましてまーす」

 母親と共に料理をしている咲は、自分の家ではないにもかかわらずエプロンをつけている。まったくうちの子はねえ、と話す母親の声に合わせて、後ろで一まとめにした咲の黒髪が揺れる。化粧気はなくとも、十分美人に分類される顔だ。

「もう少しでごはんできるから、お父さんたちに手合わせて待ってて」

 それだけ言うと、女たちはまた料理に取り掛かった。もう少しとは言っても、この様子ではあと三十分はかかりそうだ。洗面所で作業着から着替えて、居間にある祖父母と父の仏壇前へと足を運ぶ。

 モノクロになった父の表情は、あまりに穏やかすぎる。気性が荒く、言葉よりも先に手が出た男の面影は少しもない。小さな町に生まれ、外へ出ることなくここで死んでいった父が、いまの充を見たら何を思うのか。この表情が父の本当の姿だとしたら、腹の中を一度も見せ合わなかった、つまらない親子関係になる。お互いに何を思い何を求めていたのか、仏壇に手を合わせるたびに、線香の煙につられて思考が揺らめく。

 食卓に和食が次々に並べられ、三人の食事が始まった。魚の煮付け、おひたし、味噌汁。還暦の近い母の好みに合わせて、どれも味が薄く作られている。母の髪には白いものが増えてきたようだ。黙々と箸を動かす充の前で、二人の女は話題を尽かさない。

 山本浩介と同じように、畑中咲も小学校からずっと共に育った同級生だ。家同士が近く、昔から高梨家と畑中家は家族ぐるみで付き合いを重ねてきた。幼馴染ということになるのだろう。充と咲は、だから高校卒業までの記憶をほとんど共有していると言ってもいい。一人っ子の充と、兄が一人いる咲。二人が共に育つ姿を眺めていた双方の両親が、その将来に何かしらの期待をしていたであろうことは、いつからか肌で感じていた。

 一年前に父が心臓発作であっけなく死に、東京の大学を卒業してから定職に就かずアルバイト生活をしていた充に、「もういいでしょう、帰ってきなさい」と母から電話越しに言われたのが半年前。地元に戻り、とりあえず就職した小さな自動車工場の仕事にもやっと慣れてきた頃だ。

 二十代も半ばに差し掛かったいま、こうして母に毎日料理を作らせている生活は、はたして正解なのだろうか。できれば所帯を持ち、母に孫の顔を見せてやることができるのなら、それはそれでいいのかもしれない。今日、退勤後に山本に言われた言葉がすっと耳の奥に蘇る。

『お前も早く嫁をもらえ。家族はいいぞ』

 黙って箸を動かしながら、充は家族について考えてみる。赤の他人同士が寄り添い合い、血を繋げていく。この場にいる者の誰もがそうして生まれてきた。そしてきっと、自分たちも等しくそうするためにいる。例えば目の前にいる咲と自分がつがいになることを、夫を亡くした母は望んでいる。しかし母の想いには応えられない。応えられないという事実を言葉にせずに隠す日々の重さが、食事と共に腹に落ちていく。

 

「咲ちゃん、送ってあげて」

 充が居間でテレビをみていると、食事を終えて洗い物をしている母が頭だけをこちらに向けて言った。

「送るって、すぐそこだろう」

「いいから。あんた男でしょう。女の子一人を暗がりで歩かせるんじゃないよ」

 母の歌うような声色に眉を寄せる。洗い物を手伝っていた咲が、エプロンを外して帰り支度を始めた。漬物を詰めたタッパーを紙袋に入れて、母が咲に手渡した。

 徒歩十五分の道のりを、咲と並んで歩く。田舎の夜は静寂がうるさい。静寂にも音があるのだということを知ったのは、東京から戻ってきてからだ。高梨家から畑中家までは砂利道が一本すっと通っている。街灯などない道に、虫の声と遠くの川を流れる水音が反響し、二人分の足音がリズムをとる。

「なにか話してよ」

 沈黙を、咲の言葉が破った。

「なにかってなに」

「仕事はどうよ」

「どうってほどでもないけど」

 ねえ、と言って咲が暗い山並みを指差した。二人分の足音が止まる。

「流れ星」

 山の端を眺めながら咲が言う。咲の視線の向こうで、紺色の空が山の輪郭を薄く浮き出している。

「見えなかった」

「ぼーっとしてるから」

 立ち止まって夜空を仰いだまま、咲が言った。

「まだ東京に未練があるんでしょ。さっきご飯食べてるときもだんまりで、ここの暮らしに納得がいかないって顔をしてた」

 次の言葉を待った。いま何か口にすれば、答えにも言い訳にもならない。

「ずっと遠くを見てる目をしてる。ここじゃないどこかばかりを見ようとしてるんだよ。東京で充がどんな風に暮らしていたか私は知らないけど、でも私たちはいまここにいる。家族があって、家があって、ここで生きていくしかないんだよ。はやくおばさんを安心させてあげて」

 じゃあね、と咲が充を置いて小走りで駆けていく。充が何か言うのを聞きたくなかったのかもしれない。揺れる黒髪が暗がりに溶けていった。

 その場に立ったまま空を仰いでみる。どの星も、流れることなく空にはりついている。

 ついさっき、咲が言った言葉の意味を考えた。

 東京での暮らしに未練が無い、と言えば嘘になる。東京は人で溢れていた。故郷と違って人が川になり流れる場所で、充も等しく押し流されていく水だった。水として、ただそこにあるのが好きだった。それだけのことだ。

 帰りが早い、ちゃんと送り届けたのか、と母に言われそうで、ゆっくりと来た道を戻った。